Okinawa Motion Picture Festival 2005 −沖縄映像祭−

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最終審査員

[審査委員長] 中川 陽介(映画監督)

1961年東京生まれ。武蔵大学経済学部卒業後、大手出版社に入社。雑誌編集者としてのキャリアを皮切りに同社が制作するVP,映画等の映像プロジェクトに従事。 1997年には自らのシナリオを映像化した「青い魚」で監督デビュー(脚本も)。この作品がベルリン映画祭に正式招待されることになる。ゆったりとした カメラワーク、沖縄の強烈な光と影を意識した照明などが、海外で大きな評価を得る。

2000年には2作目「Departure」を監督(脚本も)。前作同様ベルリン映画祭で高い評価を得た本作品は、日本に先駆け欧州各国で劇場一般公開される。また、この作品の脚本はNHKサンダンス映像作家賞で優秀賞を受賞し、秋田十文字映画祭では、金賞、観客賞をダブル受賞した。 2001年には24Pデジタルビデオカメラ撮影による音楽映画「FIRE!」を監督(脚本も)。それまでのゆったりとしたカメラワークから一転、テンポの速い編集で勢いのいいドラマを作り上げた。

2003年、ホリプロ製作作品「真昼ノ星空」を監督(脚本も)。主役に中華圏で今絶大な人気を誇る王力宏(ワン・リーホン)と日本のトップ女優鈴木京香、そしてホリプロの新人、香椎由宇を迎えたこの作品は、日本、欧州のみならず、広くアジア圏を狙った作品となっている。

大盛 伸二(琉球放送報道制作局制作部長)

1956年石垣島生まれ。1980年、琉球放送に入社し報道局撮像部配属となる。高嶺剛監督作品「パラダイス ビュー」(上映)や「ウンタマギルー」(制作)、「嘉手刈林昌 唄と語り」(撮影)、「夢幻琉球 つるヘンリー」(制作)など様々な映画制作にも参加。

1985年の「大航海時代の遺産 泡盛」(撮影・編集)が地方の時代映像祭特別賞を受賞。「何処へ行くOKINAWANBOY」(演出・撮影・編集、1993年)で電撃黒潮隊特別賞、「語り継ぐもの」(ディレクター・編集、1999年)でギャラクシー賞奨励賞、2003年には「ワカグテーと政秀」(ディレクター)が民放連賞 九州・沖縄地区優秀賞を受賞するなど、数多くの作品を手掛けている。

琉球放送制作
2004年8月「オキナワノコワイハナシ」
2004年12月「オキナワノコワイハナシ 冬」のプロデュース
 

田口 トモロヲ(俳優)

1957年東京生まれ。大学中退後、漫画家、ライター、イラストレーター等の仕事をしながら、マイナー、アングラ、インデペンデントシーンの中で過ごしていた20代の頃、演劇活動としては、「発見の会」を皮切りに、故内田栄一氏(シナリオライター)と組んだり、劇団健康の旗揚げに参加。同時期にパンクバンド「ばちかぶり」を結成し、音楽活動も開始。インディーズレーベルでレコードリリース、ライブ活動を行う。

映画初出演もやはりこの時期、知人の紹介で内藤誠監督作品「俗物図鑑」。が、当時は"俳優"の道に進む意思はなかった。塚本晋也監督の自主映画「普通サイズの怪人」「電柱小僧の冒険」「鉄男」が一般公開されたのと、放送作家の高平哲郎氏の推薦でTV「今夜は最高」のレギュラー入りしたことで、本格的に俳優を生業にすることを決意する。現在、映画を中心に活動。俳優以外にも、みうらじゅん氏と1994年末に結成したユニット「ブロンソンズ」で単行本「ブロンソンならこう言うね」(ごま書房)を刊行。シングルCD「大脱走'95/マンダム男の世界」、アルバム「スーパーマグナム」発売。田口トモロヲ個人としても、キネマ旬報に「可愛い少女たちとの恋愛、それと映画それ以外は消えうせてもいい、醜いんだから」を2003年3月まで3年間連載した。

最近はナレーションにも挑戦。2000年4月よりNHK総合テレビ「プロジェクトX〜挑戦者たち」のナレーションをレギュラーで担当している。

初監督映画「アイデン&ティティ」(原作:みうらじゅん、脚本:宮藤官九郎、出演:峯田和伸、麻生久美子、中村獅童他)は2003年12月、シネセゾン渋谷にて公開。ミニシアター系映画では、驚異の14週ロードショウという大ヒットとなり、ニュース23でもとりあげられる等大評判となった。

 

選考委員

宮城 潤(「NPO法人前島アートセンター」理事長)

1972年、那覇市生まれ。沖縄県立芸術大学で彫刻を学ぶ。2000年「前島3丁目ストリートミュージアム」にアーティストとして参加。その展覧会がきっかけとなり前島アートセンター設立に参加。まちを舞台にしたアートプロジェクト「wanakio(ワナキオ)」を企画。全国アートNPOリンク理事。

http://mac.gosenkobo.net

 

ティトス・スプリー(建築家)

1966年、ドイツ生まれ。1986年「Domus Academy」のディプロマコース。イタリア・ミラノの権威ある大学卒業後、デザインアカデミー(欧州連合の授業料奨学金で)。1987年 Prof. Paolo Deganello (イタリア) 、1992年 Massimiliano Fuksas Architects(イタリア)コラボレーション。1994年「Hochschule der Kuenste Berlin」(ベルリンの芸術大学)建築学科で修士卒業(卒業設計プロジェクト、トルコ)。1995-1996年 Busmann & Haberer Architects(ドイツ)「Dorotheen Bloeke」プロジェクト(ドイツ政府下院議員の新事務所)のチーフデザイナー。

1996年、日本の文部省とドイツの「DAAD」の奨学金で東京大学工学部建築学科大野秀敏研究室研究生と博士課程。1998年、「向島国際デザインワークショップ」の発案・企画。二週間ワークショップ、ファイナルシンポジウム、他様々なイベント(東京)。1999年、チーム指導員として「チョングジュ国際建築デザインカンプ」に誘われる(韓国)。2000年、「向島ネットワーク」の発案・企画。アート、建築、都市、インスタレーション、まちづくり、都市再発見のためのプロジェクト(東京)。2000年と2002年に "platform_c Cappadocia Academy" の発案・企画。学際的な国際参加地方、地域発見三週間のサマーアカデミー(トルコ)。2001年4月から琉球大学教育学部美術教育の講師。2002年11月から"wanakio" の発案・企画。沖縄の那覇市都心部で行われた体験型のまちづくりとアートプロジェクト。

 

川満 聡(マルチタレント)

1970年、浦添市生まれ。高校卒業後、『月刊おきなわJOHO』にライター及び編集スタッフとしてアルバイト入社。それと並行して、フリーの大道具スタッフとして、数々の沖縄芝居、伝統芸能公演、オペラなどに従事する。舞台という“ぱり”(宮古の方言で畑のこと)の魅力に取り付かれ、「自分の仕事は、この“ぱり”を耕す農夫になることだ!」と決意。その後、『宮古島人頭税物語 大世栄綾船(うぷゆぱいあやふに)』(沖縄芝居)に出演したのをきっかけに役者として目覚める。

1990年に“川満しぇんしぇ〜”として鮮烈デビューし、笑築過激団に入団。以後、テレビやラジオ、舞台、映画で大活躍。『パイナップルツアーズ』や『BEAT』、『ブタの報い』など数々の映画に出演。役者・芸人・マルチタレントとして新境地を切り開くべく、1994年に退団後、映画『パイナップルツアーズ』監督の當間早志らと共に“AGU!エンターテインメント”を設立(現在はCM制作会社として登記)。琉球浪漫、Okinawan Spiritsをアピールする傍ら、芝居の道を極め、“あぐ”(仲間)の輪を広げて沖縄の真のエンターテイナーを目指す。

 

宮城 公子(沖縄大学人文学部助教授)

沖縄大学で比較文学・日本近代文学を専攻し、ジェンダー関連の研究も行っている。桜坂琉映の閉館に衝撃と怒り。継続運動一緒にやりませんか。

「宮城が思ふ映画の魅力」
残念ながら映画の最初の記憶はディズニーの「101匹ワンちゃん」。同居人のそれは「東海道四谷怪談」と格調高いのだが。今やディズニーで育った特に女の子は始末の悪いプリンセス願望をどっかに抱え込んでいると疑わないので、自分の映画体験の原初にそれがあるのがくちおしいが仕方がない。とにかく興奮し、悪女クルエラ(だったか?)の緑色っぽい顔色や毛皮のコートのグロテスクさが忘れられない。以後、世代を明かすことになるが、クレイジー・キャッツもの、若大将シリーズ、怪獣もの、沖縄に入る範囲でのハリウッドものなどを、公務員共稼ぎ家庭の家計の許す限りで、祖母に連れられて見た。祖母は結構ハリウッド系のミュージカルなどに本気で夢中になっていた。時には今はなき沖映劇場で郷土芝居見物、というフェイントもあったが。中学・高校でも時々見ていたけれど、そう多くはなかった。友人に誘われて見たがつまらなかったものの方が記憶に残っている。一貫性など望むべくもなかった。絶対数が少なすぎた。ビデオなかったし。大学以降10年ほどいた東京ではかなり爆発。1年で300本ほど見た記録ノートもある。朝から池袋文芸座でイタリア映画3本立てのあと、新宿昭和館で兵隊ヤクザシリーズ3本のうち2本見て帰る、とかになるともう夜。高田馬場アクトで夜中っていうのもあった。世界各国で映画がつくられているという当然のことを知ったのもその時。アジア、アフリカ、中近東、北欧、東欧などの映画を見れるだけ見た。20代中ごろからは映画関係の本も読むようになった。とにかく映画はいい。いい映画からは宝石をもらう。アメリカの大学では日本映画と日本文化というような講座もあったが、いくつかのコードを共有すれば、どの国のいい映画も受け入れられる。いくらでも見たい。今必死で全部見ようとしているのは三池崇史監督作品の、特に熊本三部作なんですけど。

 

ダニエル・ロペス(フリーアーティスト)

ダニエル・ロペス

1970年、スイスでスペイン人の両親の間に生まれる。学生時代に旅行業を専攻し、ジュネーブ、チューリッヒ、ロンドン、シュツッツガルトにて航空会社などの旅行業界に12年間勤務する。また、同時にビジネススクールにてビジネスとマネージメントを学ぶ。2000年、長く勤務した仕事を辞めカメラ片手に東南アジア、韓国、日本へと旅に出る。ここ10年ほどは、フリーランスのカメラマンや映画関連のアート活動も続けている。

2003年から沖縄に移住し、日本語の勉強をしながら翻訳やカメラを通して琉球文化について学ぶ他、NPO法人のO.C.E.A.N. (Okinawa Culture Environment Action Network)に所属し環境問題にも活発に取り組んでいる。アート分野でのソロ活動としては、2004年、スイス H+ Galleryにて“Details of Asia”、2005年1月には、那覇市 Cafe Gallery Chandramaにて“Nostalgia cubana”を開催。その他の主なアート活動としては、“Cinema tout Ecran” Geneva film festival とthe 2005 Solothurn Swiss film festivalにてノミネートされているショートフィルム“The Japanese Cook”を友人と共に書き下ろしプロデューサーを勤める。

 

川田 哲幸(「プロジェクト未来なは」代表)

1978年生まれ。平成11年、石嶺青年会会長に19歳で就任。平成12年には『那覇市青年団体連絡会』副会長を務め、翌年、平成13年6月に会長となる。現在、株式会社大平機械に勤務する一方で『那覇市青年団体連絡会』会長(今年で4年目)、『プロジェクト未来なは』の代表を務める。地域の伝統芸能をこよなく愛する、島酒大好きな男。妻と、2人の子供の父親でもある。

 

下地 敏史(「Okinawa Motion Picture Festival 2005」実行委員長)

1979年、那覇市生まれ。県立那覇高等学校卒業。名護市立名桜大学ではジェンダー学を専攻し、映画サークルで様々な作品の監督・脚本・出演を手がける。1998年、崔洋一監督『豚の報い』の方言指導担当。2002年、読谷村のカフェでのインスタレーション「Beautiful Things」にて写真・詩・音楽で参加。現在、那覇市教育委員会非常勤として勤務する傍ら、沖縄の基地問題に関するドキュメンタリー映画を制作中。